「21世紀の朝鮮通信使を目指せ」

 2017年1月19日(木)に福岡市内の会場で開催された講演会(主催:UNITE FUKUOKA)で、嶋村初吉先生が語られた内容を、先生自身がまとめられた文章です。嶋村先生の許可を得て、以下に全文掲載します。

「21世紀の朝鮮通信使を目指せ」

 

日韓交流史研究家、元西日本新聞記者

嶋村 初吉

 

◆ 家康が修復した日朝関係

 豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)により、朝鮮は甚大な被害を受けた。もちろん、日朝間の国交は断絶した。秀吉の野望から始まった侵略戦争は、1598(慶長3)年8月18日、秀吉の死で終わる。その後、東軍と西軍が激突した関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、対馬藩に命じて、国交の修復、朝鮮通信使の派遣を命じる。通信使派遣を要請した幕府には、天下統一後の支配体制を強化する思惑もあった。幕府の権威を喧伝するために、また各藩の財政を削り落とすために、朝鮮通信使を利用した側面も見逃せない。

 

 なぜ、朝鮮王朝は、秀吉の朝鮮侵略から10年も経たないうちに日本と国交を修復し、朝鮮通信使を派遣したのか。その背景には、北方の脅威があった。ヌルハチの女真族である。度々、国境を脅かしており、その防備で兵力を割かなければならなかった。そのため、南方は平穏に保ちたかった。通信使派遣は苦渋の決断であった。

 

 日本側の提案を受け、朝鮮側は前提条件として2点を要求した。それは最初に徳川将軍が国書を朝鮮国王に差し出すことと、王陵を盗掘した秀吉軍のなかの「侵陵賊」を突き出すことであった。

 

 これに対応した対馬は家康の指示を仰ぐことなく、王陵を荒らした犯人をつくり上げ、国書を偽造(一部、改ざんという説も)して朝鮮王朝に差し出した。このような対馬藩の暴走行為は、室町時代から、すでに行われており、対馬藩にとっては難しい技ではなかった。幕府の印鑑まで捏造されている。

 

◆ 朝鮮通信使とは

 朝鮮通信使は「文の国」の使節であり、野蛮な「武の国」日本を教え導くという小中華思想に、朝鮮はこだわった。朝鮮王朝は外交における形式と「国体」を重視し、使節の意味を国書交換に置いた。日本に行く使臣にとっては国体をそこなわず、その威厳を示すことが重要であった。使臣は、儀礼的な交流に忠実な姿勢を貫いた。

 

 朝鮮通信使は1607(慶長12)年を皮切りに、1811(文化8)年まで計12回来日した(最後は対馬止まり)。名目は将軍の就任を祝う慶賀使で、国書を交換して両国の信義を確認し合った。ただし、3回目までは回答兼刷還使(さっかんし)と言って、秀吉軍によって日本に拉致された朝鮮人を連れ戻すことを主目的とした。

 

 通信使一行は漢城(ハンソン。現ソウル)の王宮で国王から励ましの言葉を頂いて出発。江戸城での国書交換のため、8ヵ月から1年2ヵ月をかけて往復した。使節は、釜山から大坂まで海路。大坂から京都の淀まで川御座船で遡った後、陸路、江戸へと向かった。家康を祀る東照宮ができた日光にも3度、行っている。

 

 朝鮮通信使の派遣交渉は、釜山の草梁倭館が担った。1680年代に約10万坪(長崎・出島の25倍)の日本人居留地、倭館が整備され、対馬藩士が交代で400人から500人が常駐。外交交渉や貿易に従事した。

 

 朝鮮通信使を迎えるため、幕府の年間予算を越える巨額(100万両)を投入した。沿道の各藩の負担も甚大であった。接待をする沿道の各藩で、10万石以下の藩には助成金を出した。10万石以上の藩は自前で供応に当たった。

 

◆ 朝鮮ブームに民衆は沸く

 朝鮮通信使が来日すると、宿泊先には求画求詩の人波が押し寄せた。とりわけ、漢詩文の応酬をする製述官の役割は大きく、「連日大勢の倭人らが 詩文を送ってくる 病を圧して すべて和酬してやる」(金仁謙『日東壮遊歌』)という状況。どこの沿道でも、客館に儒学者、文人、医者、画家などが朝鮮の先進文化を学ぼうと盛んに足を運んだから、応対する製述官らが悲鳴を挙げるのも無理はない。

 

 庶民の間では、「朝鮮人の字を得ておけば願い事が必ず叶う」という噂があったため、宝を請うように集まったとも言われた。

 

 通信使は異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、使節が行く沿道には、人垣が出来た。異国の風俗、音楽、舞踊を、縁日を楽しむかのように民衆は鑑賞した。

 

 その影響は牛窓の唐子踊り(岡山県瀬戸内市)、分部町や東玉垣町(いずれも三重県)の唐人踊りなど祭礼にも及び、今日まで継承されている。興津の清見寺(静岡県)、本蓮寺(岡山県瀬戸内市)に残る多くの書画、さらには神社に奉納された絵馬などを見ると、当時の朝鮮ブームが手にとるようにわかる。

 

◆ 江戸時代、唯一の在外公館「草梁倭館」

 現在の釜山港は埋め立てにより、往時の姿を大きく変えてしまった。江戸時代、龍頭山公園の周辺に「草梁倭館」があった。釜山浦の草梁に設置された倭館が手狭になったため移転された。建物は「朝鮮建て」「日本建て」両様。日本と朝鮮の大工、左官らの共同作業で当たり、3年がかりで1678年に完成した。

 

 その面積は約10万坪(長崎・出島の25倍)。東面560メートル、西面450メートル、北面580メートル、南面750メートル。東西で比べると、東側には館守屋(家)、開市大庁(私貿易会所)、裁判(さいはん、外交交渉官)屋があった。西側は客館としての建物を揃えており、短期の滞在者が多かった。草梁倭館は周囲を塀で囲み、見張り番人もいた。北面には宴席門があり、応接所で開催される定例の儀式に出席するために、使節が用いた。   

 

 草梁倭館は江戸時代、唯一の在外公館。ここには500~600人の対馬藩士が詰めており、東莱府の役人と外交交渉を行う一方、貿易実務も行った。倭館に住む藩士らの食事は、東門の前に立つ朝市で購入していた。対馬藩士と朝鮮人が日常、気軽に交わることを遮った。開放すれば、喧嘩や殺傷沙汰の発生し、藩士のなかには朝鮮の女性と懇ろになり、子どもを孕ませる人士も出たからだ。禁令は石碑に刻まれて、厳しく告げられた。その条例を記した「約条制札碑」(高さ140センチ、幅68センチ)が、現在、釜山市立博物館の敷地内に立っている。

 

 倭館では、館守日記が毎日かかれ、1日ごとの出来事を丹念に記録した。そこには窃盗、殺人事件も記されている。人参の密貿易で命を落とす人もおり、女性問題を起こして処罰された記事も出てくる。

 

◆ 朝鮮人の日本認識を変えた通信使

 朝鮮では、日本認識を変える上で、通信使行員たちからの伝聞や、彼らの残した日本使行録などが効果的だった。それを役立てたのは一部の知識人(実学者)で、彼らは感情的な敵愾心や華夷観から脱皮して日本を見詰め直し、文化的に発展する日本に対する関心を深め、多数の著作を残した。

 

 例えば、李瀷(イイク、1681-1763)。実学者の彼は日本への無関心や固定観念から脱して、日本の幅広い分野に関心を持ち、日本社会の実相や変化に注目した。日本の技術の優秀さを認め、立ち遅れている朝鮮の技術を批判した。また、日本の武器の製造技術が進んでいることを評価した。朝鮮の技術が衰退したのは、技術を軽蔑する意識と制度のお粗末さからだと指摘する。通信使行をさらに活発化させ、3年に1回ずつという定期的な相互訪問、日本の使臣に対する接待を対日通信使の場合と同様に釜山の倭館、でなければ都・漢城で行うことを主張した。

 

 18世紀後半、日本は文化文政期の繁栄に象徴されるように、文化、商工業が発達し、朝鮮通信使の一行も、驚きを隠せないほどであった。1764年に来日した通信使・正使の趙曮(チョウム)は救荒作物サツマイモ(対馬では孝行芋といった。韓国ではこれが訛ってコグマという)を朝鮮に持ち帰って広めたことで知られる。彼は水車、舟橋、臼、堤防工事など日本の優れた技術も習おうとした。朝鮮の実学者も、これに同調した。

 

◆ 対馬藩の外交官、雨森芳洲

 雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう、1668-1755)は、対朝鮮外交で活躍した対馬藩の外交官で、朝鮮との「誠信交隣」、現代の言葉で言えば「誠信の交わり」という言葉を残した。芳洲が広く知られるきっかけは、1990年に来日した韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領が、宮中晩餐会の答礼で行った雨森芳洲を称える演説だった。

 

 芳洲の出生地、滋賀県高月町(現、長浜市)のまち起こしは活気づき、対馬でも芳洲を顕彰する運動が盛んとなった。その結果、対馬が提唱する朝鮮通信使ゆかりのまちを繋ぐ縁地連絡協議会が1995年、結成された。このように盧泰愚大統領演説は、大きな波動となった。

 

 芳洲は、雨森村(滋賀県高月町)の医者の家に生まれた。初めは医者を志したが、儒学に転向。江戸に出て、木下順庵の門下に入った。22歳の時、順庵の薦めで、対馬藩に出仕した。国書改ざん事件が発覚し、家光将軍の裁きのあった後である。時の対馬藩主は宗義真。対馬が政治的にも、文化的にも最も栄えた時期だった。

 

 芳洲は31歳から外交実務を担当する朝鮮方佐役に就き、数々の業績をあげていく。当時、対朝鮮外交は「筆談外交」だったが、それを芳洲は「ことばを知らで如何に善隣ずや」と言って、釜山で3年間留学し、朝鮮の言葉(ハングル)を習得するために学んだ。

 

 44歳(1711年)と51歳(1719年)のとき、朝鮮通信使の真文役(しんぶんやく)として対馬から江戸までの往復の旅に随行した。

 

 雨森芳洲の著作の中で、最も評価されているのは、『交隣提醒(こうりんていせい)』であろう。61歳の時、対馬藩主に対朝鮮外交の心構えを説いたもの。その中に、今日にも通じる、次のような言葉がある。「誠信の交わり」と通称されている。

 

 「互いに欺かず争わず真実を以て交わり候を誠信とは申し候

 

 意味するところは、互いに「欺かず争わず」「誠信」の基本精神に立って、交際・交流を行わなければならない、そうしないと行き詰ってしまうということである。

 

 長年、朝鮮外交にかかわった体験から、自ずとにじみ出た芳洲の言葉である。この「誠信の交わり」は、“日韓の懸け橋”として交流を進める上で、大切な基本理念といえる。

 

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 日朝両国とも鎖国体制で固められた当時、朝鮮は通信使を通じて、日本国内の実情を把握、認識した。日本は、在外公館といえる釜山の草梁倭館に滞在する対馬藩士から朝鮮の情報を得た。お互い外交チャンネルを持つことで、誤解や偏見を解消していった。

 

 朝鮮通信使は平和の使節である。往来した200年の間、東アジアは平和的安定が維持された。その精神を受け継ぎ、我々は「21世紀の朝鮮通信使」「平成の朝鮮通信使」を目指すべきではないだろうか。国境を超え、お互いを支え合う良好な関係があってこそ、「日韓関係」「アジアの時代」は進化していく。そのためには、政治に左右されない民間交流が欠かせない。通信使は昨年、ユネスコ世界記憶遺産に、日韓の民間団体によって登録申請された。今年8月か9月に登録が決まる予定である。

 

◇    ◇    ◇

 

­【朝鮮通信使の概要】­

 

■ 朝鮮通信使の規模と名称

 三使(正使、副使、従事官)はじめ約30分野の選抜メンバー。300~500人。

 1607(慶長12)年を皮切りに1811(文化8)年まで、計12回来日。1~3回目までを「回答兼刷還使」、4回目以降を「通信使」と称した。

 

■ 朝鮮通信使の道程

 【韓国】漢城(現ソウル)=三使任命式 → 忠州 → 聞慶 → 安東 → 慶州 → 蔚山 → 東莱 → 釜山(草梁倭館、永嘉台)

 【日本】対馬―壱岐―相島―赤間関―上関―下蒲刈―鞆の浦―牛窓―室津―兵庫―大坂―京都―近江八幡―大垣―名古屋―清水(興津)-箱根―小田原―品川―江戸(江戸城、浅草)→ 日光(3回だけ)

 

■ なぜ、朝鮮通信使を派遣したか 

 将軍の代替わり(就任)ごとに派遣。なかには世継ぎ誕生祝いも

 

■ 対馬藩の役割  

 対朝鮮外交、朝鮮貿易、朝鮮通信使派遣の要請と案内

 

■ 国書改ざん事件(柳川一件とも言う)

 宗義成(対馬藩主)VS 柳川調興(江戸詰めの対馬藩重臣)

 

■ 朝鮮通信使は、日本に何を伝えたか

 ①朝鮮朱子学=李退渓(イテゲ) 

 ②医学=許浚(ホジュン)

 ③食=焼き肉、キムチなど 

 ④美術 

 ⑤芸能=唐子踊り(岡山・牛窓)、唐人踊り(三重・分部町、三重・東玉垣町)、朝鮮山車(岐阜・大垣市)、唐人揃い(埼玉・川越市)

 

■ 朝鮮通信使を江戸まで案内した、主なる対馬藩の儒学者

 雨森芳洲、陶山訥庵、松浦霞沼

 

■ 朝鮮通信使で名を残した朝鮮人

 申維翰(製述官)、趙曮(正使)、金仁謙(書記)、玄徳潤(通詞)

 

■ 日朝間の主な貿易品

 日本=銀、銅、丹木、胡椒など  

 朝鮮=人参、生糸、縮緬など

 

■ 日本の儒学者

 藤原惺窩、林羅山・述斎、新井白石、亀井南冥、貝原益軒、古賀精里、草場珮川

 

■ 絵画の交流

 李聖麟、英一蝶、葛飾北斎、羽川藤永、池大雅

 

■ 大坂での朝鮮人殺人事件

 崔天宗(中官、都導訓)VS 鈴木伝導(対馬藩通詞)

 

■ 異例事  

 朝鮮人街道(滋賀)、馬上才、日光遊覧(3回)、天皇側近の通信使見学、大坂・竹林寺にある金漢重(小童)の墓

 

■ 通信使迎接で名前を残す将軍  

 徳川家康、家光、綱吉、家宣、吉宗

 

■ 通信使を題材にした作品 

 朝日文左衛門『鸚鵡籠中記』、歌舞伎『漢人韓文手管始』